我らは野良猫である

人生の中で出会うなにか

人の役に立ちたい思いは殺人への加担かもしれない

答えがない葛藤

介護施設での業務中に事故が起こった。

1名で10名を見ている状況の中で、普段は安定して車椅子に座っていられる方が、僅かな時間の中で、床へ転倒していた。

正直、よくあることだ、とも言えることでもあるが、実際に自分が1人しかいない状況で起こるのは、精神的にキツイ。

 

この転倒事故がおきた前日まで、私は肩の筋緊張から生じる痛みを理由に休ませてもらっていた。

以前に「頚椎椎間板ヘルニア」と診断され、1週間程度休んだことがあったから、首の痛みが再発してしまった、で休みを取ることは簡単なことではあった。

しかし、実際には「頚椎椎間板ヘルニア」ではなく、精神的なことが理由で肩周辺に筋緊張を起こしてしまうらしい。

この「精神的なもの」の負担は、職場に中にある。

 

私の精神的な悩みの答えは、採用権限を持つ上司にあると考える。

例えば、私が21時に業務が終わらないことから「〇〇さん、21時におわらない」風潮が漂っている。

今の施設では、2ヶ月近く前までは、短時間でのパートで、仕事内容も多くの人がイメージする介護らしい部分は、やっていないに等しい内容だった。

8時間労働に変更してから、ブランクになってしまっている業務内容をこなしていくことになった。

簡単な言うなら、1から覚えないといけないといった状態だ。

そんな状況の私が21時に終わらずに15〜30分程度の遅れは、安全を保って適切に業務をこなしてくれるなら良いのではないか、と言うのが私の考えであったが、この答えは運者側にある。

その他のことでも不慣れの中で、感じ取る様々なものは大きな負担になっていた。

 

肩の痛みが再発し、痛み止めが短時間しか効かなくなったとき、心の負担軽減を考え、上司に相談しようと思ったし、肩の痛みから急なお休みになることを避けたい思いもあり、連休に入ったタイミングで主任に電話をした。

しかし、何故か電話にでない。折り返してもこない。

体調不良でお休みの際には、主任に連絡することが決まりになっているにも関わらず、電話にでない。

連日に渡ってかけているからこそ、嫌われているとしか思えない心境になったのは辛かった。

結局、当日になってユニットへ休みの連絡をした。

その時、電話にでた職員からは「主任に連絡しましたか?!」「遅番なのに休むの?!」だった。

心が折れそうな思いになった。

 

以前、20代のリーダーから「人としてどうなんですか?」などなど人格否定を含む言葉で、攻撃されたことがあったが、こっちこそ言ってやりたい。

「人としてどうなんですか?」と。

体調不良で休むと言っているのだから、社交辞令でも「大丈夫?」の一言を添えろと。

 

まあ、そんな小さなこはさておき、ユニットの存在する謎の風潮意識や、雰囲気を気にしないように自分を貫き通すには、運営者側の回答は必要だと思った。

しかし、解決に至らずに出勤することになった。

 

そんな当日に、事故など絶対に起こしたくない。

しかし、起こってしまった。

あの日、危険度の高い人に普段と違った様子が見られたから、対応を変更しながらも、転倒したAさんの様子が記憶に残る。

私は、余裕がない時や極度に集中しなければならない場面では、子供のように画像のように記憶していく。

これは、虐待を受け育った私とっては、虐待者の細部を読んで被害を小さくしようとする手段だったらしいが、そうとは知らずに大人になってからは、特技だと思って磨きをかけてしまっているから、今更どうしようもない。

 

画像のような記憶は、動画のような感じではなく、パラパラ漫画のように一コマ一コマの画像のように記憶している感じ。

そして、パラパラ漫画のような一コマ一コマを繋ぎ合わせて再生する。

だから、あの日のAさんの普段にはない一瞬の表情を記憶した。

その表情は、子供が悪いことをしようと思っていたら、お母さんが現れたときのような表情をしていた。

でも、それは一瞬のことで、すぐに普段道理の様子に戻った。

それでも、側へ行き、声をかえたかはわからないが、車椅子が僅かに移動していて、腰が痛くてお尻を僅かに動かすような仕草があったことを記憶している。

 

問題はなさそうと判断し、危険度の高い人を寝かせるためにお部屋にお連れした。

そのまま、その方の排泄介助に入ろうと思ったが、勘が働く私は、嫌な予感がした。

排泄介助には入らずに安全な状態にしてから、フロアに戻るとAさんが車椅子から落ちて、床に長座位で座っていた。

 

この一連の流れを通常の記憶だけにすると、Aさんの様子には問題がないことを確認し、別の危険度の高い方の臥床(寝かす)のためにフロアを離れた。

それだけになってしまう。

しかし、フロアを離れ、別の危険度の高い方の臥床を終えた時に感じた頭の中にあるひっかかり、それは勘のようなもの。

無意識の方にある画像記憶。無意識の方にあるから、勘のように感じるのだと思う。

 

ここで、説明する文章を書いていると、まるで見ていたことを繰り返し説明しているだけのようになってしまうが、そうではないことを書きたいのだが、そうならないから困ってしまう。

 

転倒の発見時には、すぐに出てこなかったが、余裕がない時ほど、無意識の中に画像記憶することを知っているから、無意識世界からひっぱり出した事実。

 

私1人の状況の中で、ベストは尽くした。

落ち度はないと言えると思う。

離れた時間は僅かであったし、勘が働きフロアに戻ってもいるから、避けられなかった事故だと思う。

 

利用者さんの安全を守りたくて、必死に動いても動いても、利用者さんに苦痛を与えることが起きてしまう、矛盾がある仕事に複雑な心境になる。

 

例えば誤嚥性肺炎

転倒事故と同時期に看取り対応の方がいる。

誤嚥性肺炎から入院になり、看取り対応で施設に戻られた。

食事の拒否が強い方だったが、次第に意思疎通は難しいものの、よく喋るようなり、隣のテーブルの方に話しかけていたり、一緒に歌を歌ったりもするができるようになったりしていた。

そんな中で、誤嚥性肺炎になり入院し、看取りとして戻られた。

高齢であるがゆえに、様々な要因が考えられることではあるが、自分たちの食事介助などが原因していないかと考えるとき、人の助けになっているのか、死へ追いやってしまっているのではないかと自問自答するような思いになる。

 

今の施設は、救急搬送が多いと感じている。

1日に2名も誤嚥性肺炎で搬送。

少し期間をあけて、また別の方2名が救急搬送。

この時は、尿路感染症が原因だった。

1日に2回も救急車がくるユニットって初めてだ。

こうしたことから、自分たちのケアに問題がなかったのか、自問自答したくなるのである。

 

保育園でお昼ご飯を詰まらせ窒息死のニュースをみて

保育園で、お昼ご飯を詰まらせて児童が窒息死したニュースを息子と見ていた。

息子は「こういうことは、知らないでいるだけで、実際には死亡するまでに至らないだけでよくあることだと思うよ」と話していた。

それを聞きながら、確かになあ、その通りかもなあ、息子賢いなあ、などなどぼんやりと思いながら、介護施設と似ているな、と思ってしまった。

時間が決まっている中で、早く早くが当たり前になってしまっている現実。

利用者さんの食事介助の時間が20分だとする。

その理由は「時間をかけても負担になる」「3食の中で食べられていれば良い」だ。

確かにその通りだと思うが、時には介助者がいなくて20分が経過して食事を下げてしまうようなこともある。

食事の介助者がいないのは、利用者さんの問題でない。

見方を変えれば、ネグレストに当たる。

そんなギリギリのラインでの介助。

20分間と言っても、それより早く介助を終わらせないとならない現実も存在する。

 

息子がニュースを見て、最後に言った言葉は

「5分くらいオーバーしてもいいじゃん」だった。

 

今は、いろいろと重なり考えるのが難しいが、息子が言った「5分」に鍵があるように感じている。

それは、保育園でも介護施設においてでも、鍵になる時間だ。