我らは野良猫である

人生の中で出会うなにか

支配により訓練された娘

支配されることの恐ろしさ

私の母は、私だけを支配してきた。

そんな母親を「毒親」と呼ばれることも知っているが、私自身にとっては「支配者」と言う方がしっくりくる。

1ヶ月ほど前に母から連絡があったことから、怖くて怖くて、怯えて過ごしている。

恐怖で眠れないから、うつ伏せで枕を抱いて眠る。短時間しか眠れず、酷い悪夢で目が覚めた時の強い恐怖心には耐えることに限界を感じることも多い。

短時間しか眠れないから、1日の中で何度も眠っている毎日。

これも、続くとしっかりとした睡眠が取れていないから、身体的にも辛くなっている。

そして、この地球上の全ての人が信用、信頼できないと感じ、全ての物事に意味がないように感じる。それは、人間だけでなく、全ての動植物の営みや、世の中の出来事は地球を彩るオブジェのようであり、存在しない幻の世界を見ているように感じる。

私は、1人ぼっち、なんだと感じる。

孤独ではなく、1人ぼっちだと感じる。

これは、子供だった時の感覚なんだと思う。

それに、頭では、もう子供ではないし、母に何かを言われたり、されたりしても、言い返せる大人なのだし、こんなに怯えていること自体が馬鹿げているとも思う。

 

しかし、長年の支配とは、恐ろしいもので、8年間も距離をとってきても、僅かなことで、支配者から離れられなくなり、支配されていた思考状態へ戻ろうしてしまう。

 

子供の頃、母の言葉にどう答えれば怒られずに済むのか、どう答えれば愛されるのか、どう答えれば悲しい思いをしなくて済むのか、必死に頑張った。しかし、そこには答えなんてなかった。

それでも、寂しさと愛されたい思いで、正解がない苦しみの中、感覚的に母の望む自分を演じることを自分で訓練してきたのだと思う。

今になって理解したことは、どんなに頑張っても、母の気分次第なのだから、そもそも正解なんてなかったのだということ。

褒めてもらったことも、励ましてもらったことも、優しく話をきてもらうことも、一度だってない。

 

今は、理解している。

母を理解することは、無理なのだと理解している。

母に理解されることはないのだと理解している。

悲しいけれど、理解できる人ではないのが、私のお母さんなんだという事実。

みにくいアヒルの子」の童話のような人生だった。

でも「みにくいアヒルの子」のストーリーでは、最後は白鳥だったと気がつき、仲間と幸せになるが、私は白鳥にもなれないし、幸せなハッピーエンドにはなっていない。

 

子供の母を置いていかれない

 

8年前に母とは距離をとるしかないことに気がつき、着信拒否などをして連絡が取れないようにして距離を取ってきた。

それでも、様々な方法で近づいてくる。

母は、孫にメールで「病気になり、困ってる」と言うような内容で連絡してくるから、本気で心配して連絡を取ったら、認知症を装って騙してきたこともあった。

他にも、孫にプレゼントを渡し「連絡が取れないから渡してほしい」と頼み、私も子供から受け取らない訳にも行かず、お礼の電話をかけない訳にもいかずで連絡を取ったことから、酷い目に遭ったこともある。

 

しかし、当時は、距離をとっていたから、母の攻撃が始まっても動じない自分でいられたのだと思う。動じない私に母の方から怒りながら「もうお前とは縁を切る、さようなら」と去っていくから、そのタイミングでまた着信拒否をしていた。

それでも、老いていく母にとって、私がいないことで、母の世界の中で穏やかで幸せで過ごしてほしいと願っていた。

 

それなのに今は、自分の心が弱っているから、母から離れることを決められない。

 

それに、母も私同様に、子供のころに親や環境から傷ついた人だったのだと気付いてしまっている。

母と過ごした年月を振り返りるとき、生きづらさを抱えながら頑張ってきた母に憐れみを感じる。

そして、愛されたかった私の想い。

まるで、母と私は、お互い子供のときのまま時間が止まっているかのようだ。

母に何を言われても、動じない自分でいられるなら、母の傍にいてあげたいと思ってしまう。

 

でも、今は揺さぶられてボロボロになってしまう私だから、離れるしかないと思っている。

母を憎むだけでも幸せになれない。

母を愛するだけでも楽にはならない。

 

今は、母の中の子供にも、私の中の子供にも、バイバイする時が来ているように感じる。

手放す想いは、ただただ寂しい。