我らは野良猫である

人生の中で出会うなにか

小さな幸せ探し

小さな幸せ探し

私は、慢性的なトラウマを抱えて生きています。

5年間に及ぶ治療を経て、自分の人生を自分で歩くために努力してきた。

しかし、引越しが引き金となり、治療前の状態に陥ってしまった。

この努力だけでも、8年という歳月分の努力が水の泡となり、また一からの努力をするのかと思うと、もう努力したくないし、努力できないと全てを諦めたくなる。

努力しなければいいのでは、と思われるだろうが、やはり多少の努力は必要になる。

 

今は、少し落ち着いてきている中で、小さな幸せ探しをしている。

 

息子と過ごす時、ゆったりとした気持ちと幸せを感じる。

暖かな部屋と愛する息子。そっと幸せを噛みしめてみる。

 

キッチンの窓は、アパートの外階段の下にあり、階段下の隠れ窓のよう。

子供で例えるなら、秘密基地のような感じ。

その階段下の窓から見える風景は、誰にも気づかれず、一人でこっそり美しい山並みを楽しめる。

紅葉している山々を眺め、小さな幸せを感じようと努力している。

これは、感じられる日もあれば、感じられない日もある。

それでも、毎日、何回かは窓を開け、感じる努力を重ねている。

ご褒美の日もあった。

階段の上の踊り場で野良猫に餌を与えている人がいる。

野良猫が、階段を上がって行く時に、敵には絶対に見せることがないお腹を階段を登るときに見せていく。

喧嘩をしてる声や、美味しそうにがっついて食べる音が聞こえてくる。

とても癒される。

もちろん、野良猫の方は私に気がついていないから尚のこと可愛い。

 

娘と買い物へ行ったとき、息子の物ばかり選んで喜んでいる私に、娘は「お母さん、自分の物も買おうよ」と言われて、ハッとした。

いつも自分の欲しい物は買っているような気になっていたけど、実際の買い物で指摘されてみると、自分の物は何もなかった。

自分用に欲しいと思う物は買ってみた。

何故か、気持ちはハッピーになった。

この自分がハッピーだと感じる生き方をしないと、あまり幸せではないのだろうと気がつく。

 

月や夜空、そこに吹く風。

太陽の暖かな日差しと鳥の声。

 

最近は、こんな感じで小さな幸せ探しをしているのです。

 

積み重ねる日々から、自分らしい人生が、もう何章目になるのか不明だけど、始まることを願っているのです。

 

母からの着信に気がついて

母からの着信に気がつきました。

最近まで、距離をとるために着信拒否してましたが、少し事情があり解除してありました。

普段なら母は寝ている時間に着信履歴がありました。

これまで、この時間帯の母は、睡眠薬とお酒を飲んでいて、ラリって電話しているような状態なので、タチが悪い。

明日、かけ直すのが不安です。

私がどう答えるか、どう思っているのか、どう考えているのか、全て読まれています。

眠れなくもなってしまいました。不安です。

娘からアドバイスをもらい、ノートに答え方リストを作っておきました。

娘のこう聞かれたら、こう返す、には私とは全く違っていて「なるほどなあ」と感心しましたし、このことから母の否定的な話に、否定的に答える自分に気がつき、私自身が否定的だと気が付きました。

 

確かに今は、落ち込んでいるので否定的(ネガティブ)ですが、母とのやりとりは、もしかしたら、長いこと否定的な反応を返す習慣が身についているのかもしれないと疑い始めました。

子供の頃から現在に至るまで、褒めてもらうことや肯定されること、もちろん認めてもらえることはなかったです。

 

息子は、おばあちゃんとの関わりはありません。

そして、おばあちゃんの生い立ちに関することも知りません。私も知りません。

ですが、息子は「おばあちゃんもまた被害者であり、それが負の連鎖をつくっている」と考えられていることに大変賢い子だと感心します。

 

いつか、さり気なく聞いてみたいとは思いますが、その機会が訪れるかはわかりません。

 

今は、母とは他人と同じように本音と建前を使い、傷つかないように身を守るしかありません。

悲しい親子関係ですが、仕方ありません。

 

 

明日も小さな幸せが見つかりますように。