「なるようにしか、ならない」と受け入れた今
受容
多くの人はできない、多くの人はやらないであろうことを私はやった。
誰にでも出来ることではないと思う自分もいた。
ありとあらゆる事は想定し、リスクに備える準備も完璧だったはず。
しかし、想定外な状態に陥ってしまった。
それが、前回までの日記。
その後、仕事に復帰しようと「面接」を受けた。
結果は、不採用になるだろう。
何故かと言うと、面接官を不機嫌な態度で言い負かしてしまったからである。
言葉を変えるなら「やり込んでしまった」「論破してしまった」とも表現できる。
この面接時に、なぜ自分がこのような態度や状態になってしまったのか、落ち込みながら考えた。
自分のコンディションが悪いことで、イラつきが起こったのだろうか。
いやいや、間違ったことは言っていないという自信はある。
では、なぜ?
そんな自問自答。
面接について軽く検索。
そして、気がついた。
ここは、都会的なんだと。
以前の街は、人口数も少なく、適度な発展しかない土地だった。
悪く言ってしまえば田舎だと言える。
人口数も多く都会的なこの街では「面接」さえも異なるのだと気がついた。
今の地域での中小企業は、以前の街では大企業になる。
面接時にいた人は「面接官」と呼ばれるような人だったのだと気がついた。
テレビでしか見た事ないやつだ。
そう考えると納得できる。
事実なのか、憶測なのかを「市」の相談窓口で話をしてみた。
「面接に4〜5回落ちても、また頑張る」と言う人も多い土地柄で、私の憶測が当たっていることを話してくれた。
実際に「働く」という過程までに進むには、何だか長い道のりのように感じてしまうが、一歩一歩進んでいくしかないと思っている。
受容
引越しをしてきて以来「環境に慣れるには時間がかかる」とか「慣れるまでは大変」と言われることが多かったが、そんなことあるのだろうか?と疑問を持っていた。
面接での一件の謎が解けた今、ようやく、環境に適応することが難しい自分を認められるようになった。
小さなアパートの小さなベランダへ出てみる。
春を感じる空気に、冬の風が吹く。
春の風ではないところが、今までの街にはない風である。
心地よさに気持ちが落ち着く。
すると、
今まで聞こえなかった木々が風で揺れる音や、遠くで鳴く鳥の声が聞こえる。
見える風景に希望を感じる。
この街が好きになってきている自分を感じた。
私にとって、小さくて大きな一歩である。
しかし、経済的なことを考えると
新しい土地に慣れ、仕事に就けるには一体どのくらい掛かるのだろうかと思うと、気が滅入ってくる。
しかし、慣れていくしかない。
なるようにしか、ならない
そう受け入れることにした。
白い建物と陰気臭さの謎
白い建物が多く、陰気臭くて暮らせない、と思っていたことについて、歴史的なことが要因になっているのか?と推測して江戸時代まで遡ることになってしまった。
江戸時代頃に国が認める遊郭があった土地だと知った。
しかし、江戸、明治、大正、昭和、平成、令和と時代が進んでいる。
推測と根拠を調べ、辿りついたのが、
景観法に基づいた「景観条例」であった。
背景
日本では高度成長期以降、全国どこへ行っても地域全体の調和・美観・伝統を軽視した住宅やビル、工場、護岸などの建築物・構造物が次々に建てられ、街並みや自然景観から調和や地域ごとの特色が失われていった。良好な景観や環境を求めるよりも、経済性が優先され、建築基準法や都市計画に違反しない限りどのような形態の建築物でも建てることができる「建築自由の国」と揶揄される状況になっていた[1]。
その結果、長い年月をかけて形成された伝統と風格と調和のある街並みが都市を含む各地に残っているヨーロッパなど諸外国と比べて、無秩序でみすぼらしいといわれる今日の状況に至った。
私が住んでいるアパートから広がる風景は、古い建物の外壁は白や薄茶など、新築の家まで白ベースで新築であることがわからない。
近くに豪華な賃貸マンションがあって、あっちに住めないと貧富の差を感じるようになるのでは?と心配したが、建物がないかのようで全く気にならない。
景観条例があっての街並みなのだと知り、今の街が好きになってきた。
陰気臭さの謎まで解かないと新しい土地に馴れない私は、少し情けないがそれも受け入れよう。
私は、環境の変化に適応するのが苦手なのだと。
一緒に引っ越してきた娘や息子は、自然と慣れていく。
私は陰気臭いと思っていた風景に対し、息子は「京都の街並みに似ていて歩いているだけでワクワクする」「人や自転車、交通量など活気があって好きだ」と言っていた。
適応力がないとか、環境の変化が苦手と思うと本当に情けない思いになるけど、謎解きしてまで適応しようとする精神力は褒めてあげようと思う。