我らは野良猫である

人生の中で出会うなにか

向いているのに向いていない介護職

虐待で外部調査が入っていた

体調に異変が起き始めた。

普段、眠ってから目が覚めてしまうことなどなかったが、何度も目が覚め、断続的な睡眠になった。

休日に恐ろしい程の不安・恐怖に襲われる。

休日を楽しむどころではない。休日さえ、心身ともに休まらない状態。

 

介護職員として働き始めてから、転職経験もあれば、対人関係の悩みなど多くの嫌な思いもしてきた。

何かがおかしいと思った。

 

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思い当たることは、前回の日記に出てくる Aさんの死での出来事だ。

何かの感情を感じるのに感じられない。

他にも何かを感じているのに感じられない。

心が麻痺しているのではないかと疑った。

前回に日記は、実は下書きに入っていたものだ。

以前に辛くなった時に書いたことを思い出し、私は何を思っていたのだろうかと、公開状態にして、iPhoneで読み、そのままになっていた。

はてなスターを付けていただき救われたような気持ちになった。

 

そして、

自分の日記から、書かれていない事実があったことに気がついた。

利用者さんへの暴言や雑な介護。

それらが、当たり前に横行している施設。

介護職員による「虐待」で裁判になったケースの証拠的な動画を初めて観た。

同じような状況にショックを受けた。

動画の内容を虐待というなら、今の施設は?と混乱した。

これは、許されることなのか、許されないことなのか、判断ができなかった。

もちろん私は、そうした言動はしないし、本来ならダメな言動だとは思うが、似たような言動が当たり前になっている施設にいて、その判断ができない。

 

職員のイライラは、利用者さんへ向けられているから、私へ向けられることや職員へ向けられることが少ない。

最初は、自分の生活の為に多少は見て見ぬふりをしようと思った。

しかし、耐え難い思いに心を麻痺させ、耐えて働くようになってしまっていたことに気が付いた今は、私自身も被害者になってしまった悲しい現実。

 

アザは当たり前。アザと呼ぶケガ。

ネグレストに近い介護。

食事介助が間に合わないから、途中で片付けてしまうことも当たり前。

バランス栄養食だけを食べている方の数が合わないと、食べたことにして処分。

数を合わせるために、勝手に量を減らす。

入浴介助前のミーティングで、看取り介護の方に対して「面倒だから明日でいいんじゃない?明日入ったら、終わりで!ってことで!」と平気で言う職員。

この時の終わりとは、最後の入浴にして後は死んでいくだけという意味。

 

リフトを使っている施設だった。

車椅子からベットへリフトで移動後に、ベット上でズボンとリハビリパンツを脱がせ、再びリフトでポータブルトイレに座れる位置まで下す。

この流れの中で、

「手荒なことをしないで」と悲痛に訴える利用者さんに「何が手荒だって言うんだよ」と声を荒げてキレる。

「そういうことが手荒なの」と伝え返す利用さんに更にキレて、力任せに乱暴に体の向きを変え「どこが手荒なんだよ!文句ばかり言ってないで!」と扱いは更に酷くなる。

ベットには、防水シーツが敷いてあるが、ベット上で下半身の衣類を脱がせるのだから、お尻がベットにあたる。

しかし、面倒だからと防水シーツのまま。防水シーツとは言え、毎日寝るシーツであり寝具だ。

この手抜きの上にキレた状態で文句を言われながら、下半身を脱がされ、またリフトで移動させて、ポータブルトイレで排泄しなければならない。

誰が見ても、手荒だし、乱暴だし、言葉は暴言だ。

自分で動けない人への態度ではない。

人間としての尊厳など存在しない。

悲しかった。我慢できないほど許せない行為に胸が痛んだ。

 

リフトも「負担の少ない介護」ではなく、自分たちが楽をするだけになっていた。

リフト用のシートの紐状の部分が、顔や首に食い込んでいても平気。

嫌だ嫌だ、無抵抗な人眼に対してだから何とも言い現せない気持ちになる。

 

利用者さんを呼び捨てにして文句を言うリーダー。

「〇〇がさぁ・・・・・・」

〇〇がさぁ、から始まった内容は、聞くに耐えられなくて私の頭では消去されている。

Aさんが亡くなったあの日、リーダーは、Aさんが看取り介護に切り替わる打ち合わせをしてきた直後に「Aの部屋に呼ばれてさぁ、どうのこうの・・・」と文句を言っていた。

呼び捨ての上、「どうのこうの」の部分は辛くて記憶から消去されている。

あの日、業務が終わってAさんの部屋へ訪室。

弱々しく手を差し出してきた。その手を握り、

普段通りに話しかけながらも、亡くなることは予想できた。

誰からも優しく関わってもらうことがないまま、一人ぼっちで亡くなっていく姿に、言葉にならない感情が激しく動く。

人の死には慣れているが、この施設は悲しすぎる。

 

食事の配膳の時に「お名前を確認してください」と声をかける。

多くの利用者さんは、反応して見る、確認してうなずくなどする。

まるで、食事のお盆に付いてくる名札が、唯一、自分が自分であるという尊厳を感じているようで切なかった。

だから、他の職員がどんなに苛立っていても「お名前を確認してください」と声をかけない日はなかった。

名前の確認は、この施設の決まりのはずなのに私以外、守る人はいない。

 

仕事を辞めようと思っていると伝えた時に、虐待で外部調査が入っていることを聞かされた。

内部情報を提供したい思いになったが、自分の傷を深めるだけでしかない。

ここに書いているのは、施設のほんの一部分の出来事でしかないから、もう思い出したくない。

 

 

受診

 

先生は言われた。

「自分の倫理観とかけ離れた人が大多数になった時、もはや自分の倫理観は外へ向けることができず、やがては自我が崩壊する。

例えば、部活で自分の物を勝手に使ってしまう人がいるとする。勝手に使って返しているから、これだけでは法で裁けない。

そして、そういう人が大多数になった時、自分の倫理観を伝えても伝わらなくなる。その状態が続くとやがては自我が崩壊する」

 

こうも言われた。

「医者は、患者さんの苦しみを救ってあげたいと思う良心に反しない仕事。良心に反したことを続けていると非常に辛い状態に陥る。介護職を選んだ人たちも初めは同じように良心に従って目指したいものがあったのであろうが、激務からなのか次第に忘れていってしまう。これらの問題は、国をあげて考えていかなければもはや解決できない問題である」

 

聞けば理解できる内容だが、先生の話をなるべく正確に理解するために、普段は漠然と使っている「倫理観」と「良心」と言う言葉を検索することになってしまった。

関心のある人は、検索してみると役に立つと思う。

 

私の言葉で、簡単に言うなら「意に反したことをしていると辛くなる」ということである。

我慢して働いていると、うつ病などにも繋がるよ、という現代の課題とも言える。

 

先生は、感情を感じて泣くようにと言われた。

これを何日もかけ、心の整理のために書いているが、感じられないことが多過ぎて、言葉にもならないし、感じられないから涙も出ない。

 

 

傷つきの果てにあるもの

たかだか、この程度の日記を書いてきた中で、今回のこの日記だけは、始めて長い日数をかけてまで、公開しておきたいと思うのは、私の言葉にならない何らかの感情からであろう。

たかだかの日記など、一回で書い終えられないなら、下書きから続きを書くことなどない。それを考えると、私は相当な何かを抱えているように思う。

 

整理できたこともある。

 

医者は、雑な医療を行わない。

看護師も同様に、医者の指示を確実に守り、業務を適当には行わない。

では、介護職はどうであろうか。

利用者さんを患者さんに置き換えてみれば、わかりやすい。

職種違いであっても、同じように尊厳を含めた人権を守り、その業務を適切、的確に行わなければならない。

 

介護職の業務内容は、資格と呼ぶものを持っているのであれば、学び理解していることである。

何故、守れない。

どこの施設にも、大なり小なりの問題がある。

人間を前にして「介護職員もそれぞれの考えに違いがあり、正しさにも違いがある」などと都合良い理屈を持ち出すな、と言いたい。

人間を前にして、一定の正しさは存在すると私は思う。

 

「介護の質」が求められいる、とよく使われるが、私は「人間性を求められている」と言いたい。

コロナの影響で家族の面会に制限がある今、施設内には家族の目がない。

今回の施設では、家族の目が入らないだけに恐ろしいと感じてしまう。

飾りつけを全てなくしたら、刑務所と何の違いがあるのだろうか、と思ったこともあった。

 

私は、自分の業務を適切、的確に行ってきたと思える。

何一つ、間違っていない。

それなのに、何故、こんなにも傷つかなければならないのか。

今回の施設で働く中で、やりたくてやってきた仕事だけど、ここが最後になるだろうと感じていたことを思い出す。

この施設で深傷を負って、大なり小なり問題がある他の施設へ転職するには、もう限界がきていることを感じていた。

 

今回の施設で、全ての職員が、などとは思っていないし、どの職員にも、それぞれの素晴らしい側面も同時に見ている。

だから、許してしまう自分。

本来なら、人を側面だけでしか見ないことは良いことのはず。

なのに、介護の仕事では、それが仇となる。

 

私は、やりたくてやっていた仕事。

それを手放すことにも深い悲しみと無力感を感じているように思う。

 

暫くは、立ち直れない。