我らは野良猫である

人生の中で出会うなにか

批判なのか?

 

私、猫のボランティアをしているんですけどね。

事情があってブランクがあって、再活動することにしました。

どうして、再活動したかと言うと、引越し先にメス猫がいたから。

 

今日は、そんな猫の活動について、

ボロクソに批判されたのか、励ましてるのか、さっぱりわからなくて、かなり混乱。

 

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画像は、電話中に書いていた落書きなんですが、子供が「お母さんの論理的思考その物になってる!分岐・分岐・考え・結論となっていると言われて、初めてその通りだと納得してしまいました。

 

さてさて

 

納得できない内容は、次のようなこと。

 

償いとして、一生猫のボランティアをしろとか

償い続けろとか

自分で立ち上げたなら、行政へ提出する書類を作れとか

ボランティアを辞めるなら、〇〇市 ←(私の住んでいる地域)に住めなくなるとか

 

償いをしろ、と言われている内容は、離婚の時に捕獲器を持ってこれなかったこと。

当時、事情を話して謝罪しました。私もその方が怒るだけの思いを責任として強く持っていましたが、どうにもならない事情とは生きていれば起こることもあると思うんです。

でも、それを言えば「自分の思いだ!」と返ってくるのはわかるから、受け止めています。

 

私には「自分の思いだ!」と主張するなら、私にも「あなたの思いだ!」と主張してもいいと思うんですが・・・

 

私は、その方には言いたくない事情を抱え、それを乗り越え、今に繋がっているところには、私の強さがあると思っています。

 

一度挫けて、どん底から這い上がってきて、挫けたことと同じことをしようとすることさえ、勇気や強さがなくてはできないと思うんです。

 

 

それに、ボランティアって善意の活動だから、自分の人生の中で自己犠牲を払ってまで続けることではないとも思います。

もちろん、人はそれぞれなので、自己犠牲でやりたい人はそれでいいと思っていますし、批判する気もありません。

 

その方は、政治家の家系で公務員です。

私とは、全く別の人生を歩いてきています。

私には、行政が好むような文章は書けません。行政が好むような話し方もできません。

それを身に付けるとしたら、人生が終わってしまうかもしれないほど、難しく時間がかかることだと思います。

 

私は、その方とは別の人間で、同じことは出来ないのが当たり前です。

だからこそ、私は私で私の方法でやるしかないと思っているんです。

 

責任を持てと言われましたが、やる以上は責任を持ちます。

ただそれは、やっている間は、と言うことです。

人生を捧げてまで、責任を持つ必要はないと思うのですが・・・・

ボランティアですよ?

人生を捧げてまでやりたい人はやればいい、ただそれだけだと思うのですが・・・

 

私が、いつでも逃げようとする姿勢が弱さだと怒られました。

最初から、いつでも逃げれるように考えているんです。

そこには、自分の人生を考えた時に、一生をボランティアに捧げる気持ちがないことと、一番の思いは、次の世代のボランティアと時代が変わっていく先の地域の為に、種を蒔き、土壌を少しでも作っておいてあげたいからなんです。

 

人から良く言われることがありますが、

「みんな自分のことしか考えないのに、自分のこと以外の人を思う人だ」と。

私は、そう言う考えで、そう言う生き方をしている人なんです。

それが、良いとか悪いとか考えたことはありません。

 

ボランティアを辞めたら、自分の地域に住めなくなると言われたことについては、全く理解できません。

辞めても、普通に住めると思うのですが・・・・

 

 

私への支援者さんについても、名簿を作って公開しろと言われましたが、私を支援しようとしてくれている人たちは、皆、仕事など大事にしているものがあるんです。

大概、猫のボランティアをしていると知れば、変人扱いされます。

変人扱いをされるのは、私だけで十分です。

私は、仲間を守りたい。

だから、公開しないし、名乗らせないんです。

 

私が、仲間へ望むことは、人を助ける・思いやることの大切さや、活動を通して感じる、何かを感じて欲しいと思っています。

辛いことは、全部私が引き受けようと思っていますが、辛い状況に陥っているのは、勘付かれ心配をしてくれます。

それを、申し訳なく思いながら、感謝に変えています。

 

これが、私の考えなんです。

 

もう、本当に批判されているのか、励ましているのか、さっぱりわかりません。