ネット依存をどう考えるか
ネット依存をどう考えるか
ネット依存と聞くと、どのような状態を想像するのだろうか。
単純に「ネット」へ「依存」している状態であるわけだが、これが特別な状態のなのかと言えば、決してそうではない。
依存しなければならない心が問題で、たまたま依存したものが「ネット」だった、と言うだけである。
依存症と呼ばれるものは、ネットだけはない。
アルコール、薬物、異性、ギャンブル・・・依存しているものが違うだけで、依存しなければならない心の状態は同じであることに気がつかないだろうか。
依存状態をわかりやすく例えるなら、
ダメな男に、しがみつく彼女さん。
夫頼りで、夫の言いなりの奥様。
これも、同じように依存した状態である。
人は誰かに頼っている状態が楽なのだ。誰かを頼り、誰かの言いなりの状態はとても楽なもの。自分で考え、自分で行動しなくて人任せでいいのだから。
この根底には、自分で自分を支えられないことが問題となっている。自分で自分を支える、それは自分の考えを信じ、自己決定し、自分で責任をとる。自分で自分を認め、自分で自分を褒め、自分で自分を成長させる。
これらができる自分という存在が育っていないと、誰かや何かに頼らなくてはならなくなってしまう。
これが、依存症の根底ではないだろうか。
子供は親に依存して育っていく。まだ自分で自分を支えることができないからである。
子供の心が育ち、子供の自分と言う存在がはっきりと育ってくれば、親を頼らないくていいのだから、自然と精神的に自立していくものである。
しかし、自分と言う存在が育っていないままでは、やがては「ただうるさい親」から離れるだけで、他の誰かや何かに依存して生きていくことになる。
その結果が、ネット依存であり、その他の依存状態となるわけだ。
ネット依存の根底の問題は、依存しなければならない心が問題なのである。
依存はダメなものか?
依存がダメなもののように書いてきているが、決してそうではないことも伝えたい。
人は、誰もが依存心を持っている。それがむしろ正常な状態である。誰しもが、誰を頼ったり助けてもらっている、そんな当たり前のことを、言葉を変えるなら依存である。
自分が落ち込んだ時、誰かに励ましてもらいたくなる。これも当たり前のことである。しかし、言葉を変えるなら依存とも言える。
非常にわかりにくい説明になっているが、これが依存の正体だと理解してもらえるだろうか。
依存は、人として当たり前の状態であって、決してダメなものではないことを伝えたい。
ただ、この依存心が強いと、誰かや何かの依存症となってしまうのである。
依存状態から抜け出す為に
自分で自分を支えられるように、自分の心を育てることしかない。
子供がネット依存しているなら、子供が自分で自分を支えられるように、その心を育てて行くしかないだろう。
自分の考え、感情を信じ、それらを基準に生きていけれる自分と言う存在を育ててあげることが大切だと強く思う。
ネットやゲームがいけない訳ではない、そこへ依存しなければならない、心が問題なのである。
しかし、実際には親自身が依存傾向が強く、親自身の自分と言う存在が育っていない人が多い。
夫頼りにして、自分の職場さえも「夫に相談しないと」と決められないようでは、子供の精神的な自立心を育てるのは難しいだろう。
子供が起こす問題を「夫に相談しないと」と考えているようでも、当然難しいだろうと思う。
「ママ友が・・」「周りの人は・・」と他人を気にしている人にとっても難しいだろうと思う。
親がどうであれ、子供はまた完全に別の人間である。
だから、別の人間である子供自身によって育っていく場合もあるだろう。
ここでは、子供の話続きで親を持ち出してきているが、結局のところ大人であれば、自分で努力して自分を育てるしかないのである。
ネット依存が問題となること
人の生き方は自由である。ネット依存したままであっても、それはその人の生き方であるから、その生き方を否定するつもりはない。
しかし、依存しなければならない心の状態だと、現実世界での喜びを感じ、知っていく機会に欠けてしまうので、とても勿体無いことだと思う。
人は対等である、と言う感覚
柔軟性、発想力
物や物事をみる力
自己主張する力
共感性
自分を肯定する力
これらにも欠けてしまうのも、非常に勿体無いと思ってしまう。