我らは野良猫である

人生の中で出会うなにか

不思議な家と夫の想い

思い出がいっぱい

 

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大切な人がいました。

それは、最初の夫であった人。

別れる理由なんてなかった。でも別れてしまった夫。

私からの離婚の申し入れに対し、夫が離婚を承諾するために出してきた条件は

「二人で建てた家に住んでほしい。そこは子供たちのために建てた家だから、そこに住んでほしい。そして、生活の維持費用は全て支払う」

と言う条件でした。

 

こんな良い夫がいるのでしょうか・・・

 

しかし、私は、その家を捨て、子供を連れて再婚したことで全てを失った。

子供の頃からの虐待環境続きの生い立ちから、再婚相手の夫からの虐待に気が付けなくなってしまっていた。

最初の夫からの養育費はかなりの高額でした。

この最初の夫は、私たちへの支払いと子供たちのことを考えて、自分は再婚しない選択をしていました。

会社が不景気の中、最初の夫のお給料から私たちへの支払いをすれば、再婚したとしても生活が成り立たないことは知っていました。

養育費の金額は、35万。

最初の夫が亡くなるまで、これ以上の金額を私たち親子へ支援してくれていました。

 

しかし、この金額も私たち親子にはあまり助けになっていなかった。

再婚相手によって、親子でこの金額を受け取っていても生活は不安定な状態でした。

私たち親子の受け取る金額で、再婚相手の家のローンから生活費を負担している状態でしたから。

 

そんな中で「子供を育てる自信がない」と弱音を吐く私に、最初の夫は、優しく静かに

「頑張って育ててごらん、きっといつか子供が支えになるよ」

そう伝えてくれました。

その時は、意味がわからなかった。でも今は、その意味がわかり夫には深く感謝しています。

 

人格障害だった再婚相手から逃げて、離婚成立から二週間後、最初の夫は53歳で亡くなってしまいました。

悲しすぎるる現実。

私は、どんな過酷な人生でもいい、でも死んで行く時に一目でいいから「最初の夫」に会いたかった。

それだけが、私が死を前にした時への願いでした。

それなのに、先に夫に死なれてしまった。

 


バラ達②

 

この動画は、夫が亡くなってから知ったものです。

挿入歌に「思い出がいっぱい」が使われていました。

私にとって、この曲は大切な思い出の曲。

思い出せないほどの昔に、この曲を心で口ずさみながら、この歌詞のとおりに、いつか全てが思い出になる時がきて、懐かしくを今を思い出す時がくるのだろうと心を弾ませ、当時今の夫に守られている幸せを噛み締めていたことを思い出します。

 

大人の階段登る、君はまだシンデレラさ

幸せは誰かがきっと運んでくれると信じてるね

少女だったと いつの日か 思う時がくるのさ

 

この動画のサビの部分で映るバラは、私が夫と暮らしていた家で私が一人で育てていたつるバラです。

残してきたたバラは、4種類だったと思います。

私が去った家で、夫はバラを育て始めました。

動画に「思い出いっぱい」の挿入歌のサビ部分に映る私のバラには、何の意味もないのでしょうか。

何の意味もない偶然なのかもしれません。

しかし、それを確かめたくてももう夫はいないのです。

偶然なのかもしれないけれど、夫が亡くなって3年経つ今でも、この動画を見ると泣けてしまい涙が止まりません。

 

ある人が言いました。

「人が死ぬと言うことは、どんなに会いたくても、どこを探しても本当にいないんだよ」と。

今は、その意味がわかります。

どんなに会いたくても、何処をどんなに探してももう会えないんです。何処にもいないんです。それが、人の死なんですね。

 

夫に会いたい。会わなくて会えなくてもいい。

その世界に存在していてほしかった。

 

 

不思議な家

 

最初の夫が亡くなって、更に驚くことになったことがあります。

それは、私が自分から去ってしまった懐かしい家。

離婚後に夫が500万かけて、軽くリフォームしたと言っていたので、私が残してきた物は当然、処分されていると思っていました。

それが、夫が亡くなり、10年以上経って去ったはずの家に再び入ることになりました。

その家は、私が去ったあの日のままの状態で残されていました。

夫は、その家でバラを育て、大切に維持をしていましたが、生活はしていませんでした。

夫はオシャレな人でしたから、私が去った後の家にはオシャレなグラスに始まり、夫好みの生活がそこにはありました。

しかし、それらの夫好みの物は全て、私たちが去った状態の中にそっと小さく場所を使ってるようなバランスの悪さがありました。

食器棚一つをとっても、私たちが使っていた食器を全て残し、空いている少しのスペースに自分一人の新しい物を置いてある状態でしたね。

新築の家に喜び、初めて買ったトイレ用カバーも私が捨てきれずに残しておいた物がそのまま、むしろ整理された状態で残されてもいました。

私のクローゼットを開ければ、私の衣類が整理され残されていました。私のドレッサーを開ければ、そこには当時のまま使いかけの化粧品が残されていました。

ベッドの枕元に私が置いた香りの良い石鹸までもが・・・

当時、吸っていたタバコの吸いかけの箱も賞味期限が切れたまま、そっと残されていました。

これも偶然なのでしょうか?

夫はリフォームの時に、本当に必要のない家具、例えば子供の二段ベットなどは処分しています。しかし、子供たちの机やお雛様などはあの日のままに整理され残されていました。

シューズボックスの上には、夫好みのオシャレな物が片隅に飾られているにも関わらず、新築のお祝いで頂いた当時の飾り物などが色あせながらも同時に残されているんですね。

夫は、会社を経営していたので、これらの処分費用を工面することには困らなかったはずなんです。

 

10数年経って、その家を見て戸惑う中で、食事を作りました。

確か、ここに包丁が・・ ここに〇〇が・・ と開く扉の中には当時のまま残されているので、私は10数年も経っているにも関わらず、その家で自分の使っていた調理道具を使って食事を作ることになりました。

確かここに・・とサランラップを出しても、さずがに10数年経っているので使えません。なので、夫が使っていたサランラップを使いましたが。

 

食事ができると、子供達が食器を出し始めお手伝い。

子供たちは、当時使っていた食器などに懐かしみ喜んでいました。21歳になった次男は当時ドラゴンボールのキャラクターのご飯茶碗を使っていたので、長男から「お前の茶碗、それだったよな」と言われながら、ご飯を盛ってもらっていましたよ。

「グラス持ってくね」と普通に持って行くグラスは、10数年洗ってない物です。

子供達も当時のままの状態であることから、迷うことなく食器類を用意します。

 

子供たちは、当時のままであることから、何の違和感もなく食器類を使います。私は、自分が捨てたはずの全てを目の前にして、かなり動揺していました。

何故なんだ、何故なんだ・・・どうしてだろう・・・

 

まるで、その家は子供たちの為に、離婚した母親つきの思い出と共に残されいるように思えてなりませんでした。

 

どう考えても、夫が意図的に残してくれたとしか思えない状態なのです。

心の広い、大きなお人柄でした。ちっぽけな私には、その夫の思いが未だにわかりません。

ただ、言えることは、本当に嬉しかった。感謝しかありません。

もう一度、あの懐かしい家に、あの日のまま戻れたことに、夫へは深く深く今も感謝しています。

 

夫が亡くなり、長女と次男がその家で暮らし始めたのですが、長女からは「お母さん、自分の物は片付けてよね!」とクレームがきました。

私は10数年も前にその家を去った人間です。私の物だけど、私の物ではないはずなのに、私が片付けろ、と言われているんですから、本当に面白い。

子供たちは、懐かしみながらその家にすんなりと馴染んでいきます。私だけが戸惑う。

 

夫は、こんな日がくることを知っていたのでしょうか

それさえ、もう聞くことはできません。

夫に会いたい。会えなくてもいい、何も聞けなくてもいい、やはりこの世界に存在していてほしかった。

 

不思議は家は、今もそのままの状態で次男が住んでいます。

まだ、片付けてしまいたくないけど、そろそろ私の物を処分してあげないとな、と思っています。

 

 

夫が残してくれた私の人生

 

最初の夫と知り合ったのはまだ10代でした。何度も別れました。別れたと言うより離れたと言った方がいいでしょう。

私にとって、夫は父親のような存在でした。夫はいつも言っていました。

「〇〇はまだ若いから、好きなことをしてほしい」と。

夫の疑うことのない愛情の中で、私は学生時代を学生らしく過ごし、可愛いらしい恋愛し、楽しい時期を過ごした後に夫と結婚しました。

虐待環境で育った私には、初めて揺るぎない愛情の中で、満ち足りた生活環境の中で自分を育てることへと繋がりました。

そうやって、夫の愛情の元で育てた自分が今ここにいます。

 

夫は亡くなってしまいましたが、夫がかけてくれた愛情の中で、育ててきた自分で今を、これからを生きていけることに深く感謝しています。

夫と出会えたことで、今の人生があります。

夫にもらった、私の未来。

 

再婚相手の虐待の影響は大きな傷となりましたが、それを乗り越えようとする力、そしてこれからの未来は、夫が与えてくれた大切なものです。

私は、命がある限り、一生懸命生きていたい。

 

大好きでした。

これが、恋愛感情だけではなく、本当に人を愛する意味だと感じています。

あなたに会えたことは、私の苦労の多い人生の中で唯一の最大の幸運でした。

ありがとう。